いじり
例えば学校で、職場で、仲間内で、いじられやすい人というのはいる。
それをどう捉えるかというのは内容や状況によりけりだとは思うが、最近はすぐにいじめに結び付けたがる人がいる。
いじられたときの対処法も一つの社会性だと俺は思う。
言い返す、注意するというのも一つの選択肢である。
心で笑って聞き流すというのも選択肢であれば、それで周りが笑顔になる素敵な役割を自分が果たしているという見方を持つこともできる。
いじりそのものが一種の愛情表現であることもある。
そうした多様な見方がかつてはあった。
一方で、お笑いの世界でも、いじり役、いじられ役というものはある。
双方に技量が求められるものであろう(天性のものであることもあろうが)。
最近は髪の薄い人をいじる、または自らの薄毛を笑いにするものが流行っているようであるが(昔からあったにはあったが)、そこに陰湿さや芸のなさが加わり、見ていて不快な印象を抱かせるものが多い(全てがそうだとはいわない)。
薄毛に関わらず、いじり方、いじられ方が下手な人が非常に目立つ。
見せ方、いじり方、対処の仕方というものも求められるものであろう。
あれもダメ、これもダメといわれる中で、薄毛なら大丈夫そうだという短絡的な考え方が際立ち、拍車がかかり、レベルの低いものにしている。
他国では笑いにはならないのではないか。
一方で萎縮し、一方で過激化、陰湿化する側面もある。
過激化と書いてアレと思われた方もいるかもしれない。昔の方が過激じゃなかったかと。
内にこもった過激さ、抑圧の中から生まれる過激さというものもあるのである。そしてそれは余計タチが悪く、危険である。
何事にせよ痛みを知る想像力というものは必要なんであろうと思う。