面倒くさい日本人
『面倒くさい人』という言葉を最近良く耳にする。
うるさいことを言う人、細かいことを言う人として使われていることが多いような気がする。しっかり者は得てしてそのように取られる傾向があるようである。
しかし日本人は元来面倒くさい人たちが多くはなかったか。
『Made in Japan』を見てみればよい。
細部まで妥協を許さず、計算されつくされ、正確で、見えないところにまでこだわる。
厳しく、一方で遊び心も詰め込み。
なるほど、それは面倒くさい人たちが作ったに違いない。
『Made in Japan』は売れるだけでなく、愛された。愛されるだけでなく愛され続けた。
人間に対する愛情があり、仕事に対する誇りがあった。
日本のゲームは世界中で愛され、愛され続けた。日本の電化製品や車は世界中で信用された。
日本の接客は世界にも例をみないほど丁寧で、心がこもっていた。サービスの質は非常に高かった。
店に入れば、棚の配置、カウンターの高さまで計算されつくされていた。それは情報として取り入れたものだけでなく、面倒くさい日本人の感性が生み出したものでもあろう。
タクシーの運転手はかつて知識が豊富で道順も完璧に頭の中にインプットされている人が多かった。配送会社はいち早く、確実に届けることを自らの誇りとしていた。面倒くさい教育もしっかりと引き継がれていた。
ネットの出現により、世界は近くなった。
便利にもなり、楽をすることを覚え、ある意味で世界が均質化する側面もあろう。
日本人は特に面倒くさいことを嫌う人間が増えた。物を考えない人が増えた。
あえて面倒くさいことをしようと意識しはじめた人も一方ではいるようである。
まるで批判してはいけないかのごとく「ディスる」などいう言葉を流行らせ、サービスの質は反比例して落ちていった。
日本におけるインターネットサービスははっきり言って杜撰なものが非常に多い。けっして『Made in Japan』だとは思われない。
これをどう受け止めるか。
面倒くさくも有能な人間を内部に入れ、もっともっと詰めたほうが良いと思うことも多い。
攻めることが求められる時代でもある。
上に挙げたことは攻めの姿勢もあるであろうが、まずは土台としての守りがしっかりしている。
持続させること、信用されること、安心されることは守りの側面があるであろう。
日本の強みは圧倒的に守りにあると俺は考える。
攻めることも大切だし、俺自身好きなほうではあるが、徹底的に守りを強化する(当然批判をかわすという意味での守りではない)。
それが、今日本が本当は一番必要なことなんじゃないかと思う。