監視
子供たちはもっと喧嘩をすれば良いと思う。
もっと遊び、もっと笑い、もっと自由であれば良いと思う。
まずは喜怒哀楽の感情を育て、心を鍛え、周りとの関係性を育てれば良いと思う。
子供たちには鼻水が風になびくほど猛ダッシュしてほしい。最近、子供たちが猛ダッシュしている姿を見かけない。
俺は子供の頃、よく猛ダッシュした。理由は、よく分からない。鼻水が風になびくほど。
皆が同じである必要はない。
足が速い子がいれば、音楽が好きな子もいる。勉強が得意な子もいれば、図工が好きな子もいる。
お調子者もいれば、いじられ役の子もいる。
違いがあって良いし、得意不得意があって良い。
過保護が過ぎているように感じられる。
徒競走で手を繋いで同時にゴールするというのはやはりおかしい。
勝って人気者になることも、負けて悔しい思いをすることも良い経験である。
学芸会で皆が主役というのはどうしたって不自然である。
たとえ『木』役でも、悪意がない限り、良いんじゃないか(そういう役があればの話ではあるが)。そんな損な役割を担う子も愛されるべき存在である。
先生が親の顔色を窺う教育というのは健全だとは思われない。
先生もいろいろいて良いと思う。
PTAを交代で強制加入されるという話も以前どこかで聞いた。
賛成できない。
過度に関わりを持とうとする必要はないのではないか。
それはいずれ監視にかわり、子供たちののびのびした成長を妨げかねないと恐れる。子供たちの耐性がつかなくなることを恐れる。
例えば子供たちの喧嘩が気になりだす。そのうち許せなくなる。周りの声がその気持ちを増徴させる。
しかし、大したことではないことがほとんどであろう。
いや、仮に問題があったとしても自然な流れの中で、環境の中で、関係性の中で収まりがつく状況へと導かれることも多いし、そのことが重要だと思う。
必要があれば先生が手助けすれば良い。
問題なのはそうした役割を担わされる親たちの心の変化である。
そちらの方が遥かに危険であると俺は考える。
大きな使命感を抱き、目を光らせ、問題の芽を一つ一つ潰していこうなどと考えない方が良い。
個人としてみれば、そういう(PTA的な)人がいても別に構わないと思うが、広く組織だつことに危機感を覚えるのである。
いつか正義を履き違えるようになること、視野が狭まり、想像力や感性が麻痺することこそが問題なのである。
考える機会にしてもらえればと思い書いておきます。