真似
「『学ぶ』の語源は『真似ぶ』である」とは良く言ったものである。
我々は皆最初はゼロである。何もないところから真似ていく、学んでいく。
親の言葉遣いを、兄姉の口癖ですら。箸の持ち方から、数字の数え方、服の着方、かくれんぼの遊び方まで。
遊びにせよ、スポーツにせよ、勉強にせよ、既にあるものを既にあるものとして受け入れ、真似る、学ぶ。
それは良い。
「盗作」はどうか。
今ここでは違法であるかどうかを問うているのではない。違法であるものは違法であろう。
以前とは違い肯定的に捉えている人が少なからずいることに驚く。
その理由がまた驚く。
上に挙げた「学ぶ」=「真似る」を引き合いに出して自己正当化している人たちがいるのである。試験でカンニングをしておきながら、悪くないと開き直っているような、そんな違和感を覚える。
学ぶ過程で誰か偉大な(あるいは好みの)先達の作品なり、作風なりを見本とすることに反対しているのではない。最初はそこから入る。無意識にせよ何らかの影響を受けている場合もある。
その過程で、ときに壊し、ときに発展させて自らのスタイルを確立させていくのが通常であろう。
例えば、発表する場で、公開する場で、そのまま真似ることに抵抗を感じないその感覚に驚くのである。
まず、作り手としての誇りが、恥の感覚が欠如している。
真似るといえば、例えばあたなが誰か他の人間を人間的に真似したいと思うとする。
この場合、自分と全く違うタイプの人間に惹かれ、そのように思うことも多い。
しかし、怪我のもとになりかねないことも知ってもらいたいのである。
人は成長する過程で、多くのものを吸収し、核となるものを作り上げていく。
いつか自分と違うAさんの真似をしようと思っても、Aさんとあなたは育ってきた環境が違う。時間が違う。外見も違う。声も違う。表面的なものを真似るのは比較的簡単であったとしても長い時間をかけて培われてきた精神をも真似ることは簡単ではない。
このときあなたは「真似る」ことを捨て、長い時間をかけて「学ぶ」必要があることに気が付くかもしれない。
「学ぶ」≧「真似る」なのかもしれない。
形だけAさんを真似ても、第三者から見てあなたがAさんらしくは映らないことが圧倒的に多いのである。
あなたが悪いわけではない。当然Aさんが悪いわけでもない。
自分を知るということは大切なことであろう。自分を知り、他人との違いを知ること。共通するものを知ること。学ぶことの意味を考えること。
例えば学校生活で、そうしたことを知ることができたとしたら、それは一つの大きな収穫だろうと思う。
そんなバラバラの私たちが、どんな小さなものであれ共通して持ち得るものがあることに一人一人が気が付いたとき、社会はほんの少しだけ良くなるかもしれない。
いじり
例えば学校で、職場で、仲間内で、いじられやすい人というのはいる。
それをどう捉えるかというのは内容や状況によりけりだとは思うが、最近はすぐにいじめに結び付けたがる人がいる。
いじられたときの対処法も一つの社会性だと俺は思う。
言い返す、注意するというのも一つの選択肢である。
心で笑って聞き流すというのも選択肢であれば、それで周りが笑顔になる素敵な役割を自分が果たしているという見方を持つこともできる。
いじりそのものが一種の愛情表現であることもある。
そうした多様な見方がかつてはあった。
一方で、お笑いの世界でも、いじり役、いじられ役というものはある。
双方に技量が求められるものであろう(天性のものであることもあろうが)。
最近は髪の薄い人をいじる、または自らの薄毛を笑いにするものが流行っているようであるが(昔からあったにはあったが)、そこに陰湿さや芸のなさが加わり、見ていて不快な印象を抱かせるものが多い(全てがそうだとはいわない)。
薄毛に関わらず、いじり方、いじられ方が下手な人が非常に目立つ。
見せ方、いじり方、対処の仕方というものも求められるものであろう。
あれもダメ、これもダメといわれる中で、薄毛なら大丈夫そうだという短絡的な考え方が際立ち、拍車がかかり、レベルの低いものにしている。
他国では笑いにはならないのではないか。
一方で萎縮し、一方で過激化、陰湿化する側面もある。
過激化と書いてアレと思われた方もいるかもしれない。昔の方が過激じゃなかったかと。
内にこもった過激さ、抑圧の中から生まれる過激さというものもあるのである。そしてそれは余計タチが悪く、危険である。
何事にせよ痛みを知る想像力というものは必要なんであろうと思う。
面倒くさい日本人
『面倒くさい人』という言葉を最近良く耳にする。
うるさいことを言う人、細かいことを言う人として使われていることが多いような気がする。しっかり者は得てしてそのように取られる傾向があるようである。
しかし日本人は元来面倒くさい人たちが多くはなかったか。
『Made in Japan』を見てみればよい。
細部まで妥協を許さず、計算されつくされ、正確で、見えないところにまでこだわる。
厳しく、一方で遊び心も詰め込み。
なるほど、それは面倒くさい人たちが作ったに違いない。
『Made in Japan』は売れるだけでなく、愛された。愛されるだけでなく愛され続けた。
人間に対する愛情があり、仕事に対する誇りがあった。
日本のゲームは世界中で愛され、愛され続けた。日本の電化製品や車は世界中で信用された。
日本の接客は世界にも例をみないほど丁寧で、心がこもっていた。サービスの質は非常に高かった。
店に入れば、棚の配置、カウンターの高さまで計算されつくされていた。それは情報として取り入れたものだけでなく、面倒くさい日本人の感性が生み出したものでもあろう。
タクシーの運転手はかつて知識が豊富で道順も完璧に頭の中にインプットされている人が多かった。配送会社はいち早く、確実に届けることを自らの誇りとしていた。面倒くさい教育もしっかりと引き継がれていた。
ネットの出現により、世界は近くなった。
便利にもなり、楽をすることを覚え、ある意味で世界が均質化する側面もあろう。
日本人は特に面倒くさいことを嫌う人間が増えた。物を考えない人が増えた。
あえて面倒くさいことをしようと意識しはじめた人も一方ではいるようである。
まるで批判してはいけないかのごとく「ディスる」などいう言葉を流行らせ、サービスの質は反比例して落ちていった。
日本におけるインターネットサービスははっきり言って杜撰なものが非常に多い。けっして『Made in Japan』だとは思われない。
これをどう受け止めるか。
面倒くさくも有能な人間を内部に入れ、もっともっと詰めたほうが良いと思うことも多い。
攻めることが求められる時代でもある。
上に挙げたことは攻めの姿勢もあるであろうが、まずは土台としての守りがしっかりしている。
持続させること、信用されること、安心されることは守りの側面があるであろう。
日本の強みは圧倒的に守りにあると俺は考える。
攻めることも大切だし、俺自身好きなほうではあるが、徹底的に守りを強化する(当然批判をかわすという意味での守りではない)。
それが、今日本が本当は一番必要なことなんじゃないかと思う。
監視
子供たちはもっと喧嘩をすれば良いと思う。
もっと遊び、もっと笑い、もっと自由であれば良いと思う。
まずは喜怒哀楽の感情を育て、心を鍛え、周りとの関係性を育てれば良いと思う。
子供たちには鼻水が風になびくほど猛ダッシュしてほしい。最近、子供たちが猛ダッシュしている姿を見かけない。
俺は子供の頃、よく猛ダッシュした。理由は、よく分からない。鼻水が風になびくほど。
皆が同じである必要はない。
足が速い子がいれば、音楽が好きな子もいる。勉強が得意な子もいれば、図工が好きな子もいる。
お調子者もいれば、いじられ役の子もいる。
違いがあって良いし、得意不得意があって良い。
過保護が過ぎているように感じられる。
徒競走で手を繋いで同時にゴールするというのはやはりおかしい。
勝って人気者になることも、負けて悔しい思いをすることも良い経験である。
学芸会で皆が主役というのはどうしたって不自然である。
たとえ『木』役でも、悪意がない限り、良いんじゃないか(そういう役があればの話ではあるが)。そんな損な役割を担う子も愛されるべき存在である。
先生が親の顔色を窺う教育というのは健全だとは思われない。
先生もいろいろいて良いと思う。
PTAを交代で強制加入されるという話も以前どこかで聞いた。
賛成できない。
過度に関わりを持とうとする必要はないのではないか。
それはいずれ監視にかわり、子供たちののびのびした成長を妨げかねないと恐れる。子供たちの耐性がつかなくなることを恐れる。
例えば子供たちの喧嘩が気になりだす。そのうち許せなくなる。周りの声がその気持ちを増徴させる。
しかし、大したことではないことがほとんどであろう。
いや、仮に問題があったとしても自然な流れの中で、環境の中で、関係性の中で収まりがつく状況へと導かれることも多いし、そのことが重要だと思う。
必要があれば先生が手助けすれば良い。
問題なのはそうした役割を担わされる親たちの心の変化である。
そちらの方が遥かに危険であると俺は考える。
大きな使命感を抱き、目を光らせ、問題の芽を一つ一つ潰していこうなどと考えない方が良い。
個人としてみれば、そういう(PTA的な)人がいても別に構わないと思うが、広く組織だつことに危機感を覚えるのである。
いつか正義を履き違えるようになること、視野が狭まり、想像力や感性が麻痺することこそが問題なのである。
考える機会にしてもらえればと思い書いておきます。
正義はどこにあるか
例えば、有名人が薬物に手を染める。暴力事件を起こす。盗みを働く。不倫や浮気をする。
本音をいうとあまり興味がない。そうしたニュースが流れると、個人レベルで言えば、まあそういうこともあるだろうなと素直に思う。
そして、それ以上の関心はない。テレビのスイッチは消すことがほとんどである。
ときにテレビが作り出す幻想は、現実とのギャップが大きければ大きいほど話題にもなるし、衝撃を与えるのも理解できる。それが犯罪や男女関係であればなおさらであろう。
マスコミが必要以上と思われるほど追いかけるのは(その論調に偏りがあると感じることは多々あるし、ましてや根も葉もないことであれば立派な人権侵害であろうが)それが有名人が人気を売り物にしている商売ゆえであり、そのことを覚悟の上で有名人になることを選んだと受け止めている。
犠牲にするものはあるのである。
マスコミにやめろと言っても無理な話であろう(病気で療養している、過度にプライバシーが侵害される等の場合は別であろうが)。
自らのイメージそのものを売り物にしている芸能人は、その社会的な影響力は無視できないであろうし、多くのファンが失望するのも理解できる。
前回、前々回とテレビが果たしてきた役割や意義について書いたところでもある。
一方で、視聴者である我々が有名人である彼や彼女らを許す・許さないという審判を下す立場にあろうか。
例えば、道ですれ違った彼や彼女らに対して石を投げつける、罵声を浴びせる、あるいは脅迫や無言の電話をかける、陰湿な手紙を送る、ネット上で子供を脅す、殺害予告をする等という事をする資格がないのは当然であろう。
彼や彼女らの多くは相手の名前も顔も知らない。
いわば全くの他人であり、その怒りをプライベートな人間に向けるのはお門違いである。
それは正義でもなんでもない、ただの暴力であり犯罪であろう。
知られぬ相手に対して最低限の礼を持って接するのは当たり前のことのように思われる。
そもそも有名人である彼や彼女と我々との関係において、上に取り上げた問題は我々が許すとか許さないとかを判断する立場にはないはずである。
一方で、有名人である彼や彼女らが例えばテレビの世界において(場合によっては)求められなくなるという意味において、それは許されない審判を下されたことと同じような意味を持ってくる。
そこに自然な因果が認められる場合には、それは仕方がないことであろうと思う(大抵は本人に意思と才能がある限り、時間が解決してくれることがほとんどであろうが)。
寧ろ、俺が違和感を感じるのはときに一般の人が普通に感じられるであろう感覚とは無関係にテレビの中で優遇(または冷遇)されている人が多数見られることである。例えば、それは番組によっては端から話が通じそうもない、自浄作用も働いていない、批判をすることすら憚らせるような異様な(特にバラエティー)番組が増えたこととも繋がっているように感じられる。最初から対立を作り出しているのである。
かつてはなかったことである。まずは視聴者がある、客があるという当然の原則から外れることはなかった。
残る人は残る人なりの理由があったように思われる。
テレビ側の人間に、どう見られているか、どう感じられているかということを客観視できていない人も増えたようである(【深堀りポイント3】※いずれ他記事でもう少し掘り下げます)。
一般の声そのものが普通に感じられるであろう感覚とズレていることも最近は多い。そのズレは他国と比べてみても日本はここ数年でとても大きくなっているように感じられる。本質的には世代の違いではない(【深堀りポイント4】※いずれ他記事でもう少し掘り下げます)。
それは本当は多数派の意見ではないであろう。
極端に不寛容か、極端に寛容に振れやすくもあり、人工的でもある。
余りに急いで復帰させようとしたり、あるいは彼や彼女が被害者であるかのごとく擁護する発言をしている人を目にすると、それは本当に彼や彼女にとって良いことなのだろうかと思わないでもない。
復帰することに異議を唱えているわけでは全くない。復帰するからには信用を取り戻せるよう努力すれば良いと思う。
とにかく違和感を感じるのである。
もう少し想像力を働かせてみると、彼や彼女らを擁護する以前に、他にもっと弱い立場の一般の被害者がいるかもしれない、と思いを至らせることはできるかもしれない。仲間であるならあえて今は擁護しないという選択肢もあるであろう。
正義はどこにあるだろうか。
正義の大人たち
あの頃、警察官も学校の先生も格好良かったと思う。
警察官や学校の先生だけではない。
子供だった俺の目から見て、大人たちは皆、格好良く見えた。
誰もが厳しく、そして優しい、善意の人たちであった。面白い人たちも沢山いた。
自分もいつかは大人になる。
そんなことは頭では分っていても、いつまでも届かぬ夢の世界だと思われた。
未来は永遠に続くはずであった。
そんな俺もいつの間にか大人になった。
これを読んでくださる皆さんもきっと大人であろう。
あの頃の大人たちも、いずれ時間が限りあるものであることに気が付いたとき、大人になる過程で愛を知り、哀しみを知ったとき、子供たちを育て、子供たちの未来を信じ、夢を与えようと考えるほどの良識は持ち合わせていたのではないか。
必ずしも自身が描いていた未来の自分になれた人たちばかりではなかったはずである。
きれいなばかりの世の中でもない。
どんな仕事であれ、自分に嘘を付かず、誇りを持って取り組んでいける限り格好良くはなれる。
今、警察官や学校の先生が格好悪いとは言わない(【深堀りポイント2】※いずれ他記事でもう少し掘り下げます)。
テレビに愛がないとは言わない。実際に素敵な番組もある。
立派な人たちが沢山いるのも、必死に戦っている人たちがいるのも知っている。
だけれでも、正義の気持ちを忘れた人たちも沢山いるように思う。
社会の枠組みそのものを変えなければならないことは沢山あるであろう。
時代の変化を認めなければならないことも勿論ある。
が、同時に時代を作るのも、また変えるのも、そして今ある世界を未来に繋ぐのも俺たち一人一人であることを忘れてはならないのではないか。
ベタな昭和のウルトラマン
最近、昭和のウルトラマンのオープニングテーマを聴く機会があった。
子供の頃慣れ親しんだウルトラマンは現在社会の中枢で活躍されている昭和(30年代~50年代)生まれの多くの人達のヒーローであり、その主題歌は心に残っている人も多いのではないか。
で、久しぶりに聴いてみたのだが、あまりにベタなのである。ベタベタな正義。
すごいヒーロー感。
真っ直ぐで、迷いなく、純粋で。
それが何故かカッコイイ。
ダサくもカッコイイ昭和のヒーローたちがそこにはいた。誰もが自分のことよりも相手を思いやるウルトラ兄弟たち。
ああ、そうだったな。忘れてたな。
僕らの中には、かつてヒーローがいて、どんなにピンチなときでも、地球が危機に陥っても、ヒーローがやってきて、傷つきながらも、最後には地球を救う。
いつかは自分もそんなヒーローのような存在になりたい。そう思ったかつての子供たちは沢山いたはずである。
テレビにはそういう力があった。真っ直ぐに作る。愛情をいっぱい注ぎこむ。徹底的にこだわる。
あの時代に生きた人たちはヤンチャな人も、根っこの部分ではそんなに悪くない人が多いように思う。
忘れていたウルトラ兄弟の歌。セブンやタロウは覚えていたが実際に聴くと心が熱くなった。
タロウもエースもジャックもセブンもウルトラマンもゾフィーも、どれもこれもカッコイイ。
詞が良い。曲が良い。歌が良い。合唱団が良い。音が良い。
曲を聴きながらも、新たな記憶が甦る。
むかしむかしおじいちゃんにウルトラ兄弟のソフビ人形を買ってもらったこと。
何が欲しいか聞かれて即答したことを覚えている。ちなみに俺は普段は相当遠慮する方である。
右手にタロウを、左手にセブンを握り締め空を飛び、一通り満足したら首を傾げながらもそそくさと箱にしまう。そんな日々がついこの間のことのようにも感じられる。
心が自然に盛り上がる。熱くなる。優しくなる。
今の目で見れば、ケチをつけることはいくらでもできる。ツッコミどころも結構ある。時代に照らし合わせたときに寄せられる批判は眼にせずとも想像できる。
単純に図式化された正義と悪という構図は、対立や偏りを生み出すものではなく、暴力を助長するものではもちろんなく、全体としてプラスに働くことの方がずっと多いように思う。正義や愛情の心を育むことが大切なんだと思う。まず、敵は架空の存在であり、地球人ではない。
勢いを付けると言う意味でも、その熱量が一番大きくなるのは結局はベタなんだと思う。そうした土台があって、斜めから見る、または偽悪的な振る舞いをする行為が生きてくる。今は逆転してしまっている。偽悪ですらなくなっている人が増えている。それは打算的でもあり、諦念にも通ずるものでもあり、悪意そのものであることも多い(【深堀りポイント1】※いずれ他記事でもう少し掘り下げます)。
正義の感覚は心の底の方では人によりそんなに大きな違いはないのではないか。
真っ直ぐあることが何か恥ずかしいことであるかのごとく思われがちな昨今、俺自身そう感じることもあるのではあるが、ベタに作りこむテレビ番組がもっとあっても良いんじゃないか、と思う。
忘れていた何かを思い出すかもしれないから。