正義はどこにあるか
例えば、有名人が薬物に手を染める。暴力事件を起こす。盗みを働く。不倫や浮気をする。
本音をいうとあまり興味がない。そうしたニュースが流れると、個人レベルで言えば、まあそういうこともあるだろうなと素直に思う。
そして、それ以上の関心はない。テレビのスイッチは消すことがほとんどである。
ときにテレビが作り出す幻想は、現実とのギャップが大きければ大きいほど話題にもなるし、衝撃を与えるのも理解できる。それが犯罪や男女関係であればなおさらであろう。
マスコミが必要以上と思われるほど追いかけるのは(その論調に偏りがあると感じることは多々あるし、ましてや根も葉もないことであれば立派な人権侵害であろうが)それが有名人が人気を売り物にしている商売ゆえであり、そのことを覚悟の上で有名人になることを選んだと受け止めている。
犠牲にするものはあるのである。
マスコミにやめろと言っても無理な話であろう(病気で療養している、過度にプライバシーが侵害される等の場合は別であろうが)。
自らのイメージそのものを売り物にしている芸能人は、その社会的な影響力は無視できないであろうし、多くのファンが失望するのも理解できる。
前回、前々回とテレビが果たしてきた役割や意義について書いたところでもある。
一方で、視聴者である我々が有名人である彼や彼女らを許す・許さないという審判を下す立場にあろうか。
例えば、道ですれ違った彼や彼女らに対して石を投げつける、罵声を浴びせる、あるいは脅迫や無言の電話をかける、陰湿な手紙を送る、ネット上で子供を脅す、殺害予告をする等という事をする資格がないのは当然であろう。
彼や彼女らの多くは相手の名前も顔も知らない。
いわば全くの他人であり、その怒りをプライベートな人間に向けるのはお門違いである。
それは正義でもなんでもない、ただの暴力であり犯罪であろう。
知られぬ相手に対して最低限の礼を持って接するのは当たり前のことのように思われる。
そもそも有名人である彼や彼女と我々との関係において、上に取り上げた問題は我々が許すとか許さないとかを判断する立場にはないはずである。
一方で、有名人である彼や彼女らが例えばテレビの世界において(場合によっては)求められなくなるという意味において、それは許されない審判を下されたことと同じような意味を持ってくる。
そこに自然な因果が認められる場合には、それは仕方がないことであろうと思う(大抵は本人に意思と才能がある限り、時間が解決してくれることがほとんどであろうが)。
寧ろ、俺が違和感を感じるのはときに一般の人が普通に感じられるであろう感覚とは無関係にテレビの中で優遇(または冷遇)されている人が多数見られることである。例えば、それは番組によっては端から話が通じそうもない、自浄作用も働いていない、批判をすることすら憚らせるような異様な(特にバラエティー)番組が増えたこととも繋がっているように感じられる。最初から対立を作り出しているのである。
かつてはなかったことである。まずは視聴者がある、客があるという当然の原則から外れることはなかった。
残る人は残る人なりの理由があったように思われる。
テレビ側の人間に、どう見られているか、どう感じられているかということを客観視できていない人も増えたようである(【深堀りポイント3】※いずれ他記事でもう少し掘り下げます)。
一般の声そのものが普通に感じられるであろう感覚とズレていることも最近は多い。そのズレは他国と比べてみても日本はここ数年でとても大きくなっているように感じられる。本質的には世代の違いではない(【深堀りポイント4】※いずれ他記事でもう少し掘り下げます)。
それは本当は多数派の意見ではないであろう。
極端に不寛容か、極端に寛容に振れやすくもあり、人工的でもある。
余りに急いで復帰させようとしたり、あるいは彼や彼女が被害者であるかのごとく擁護する発言をしている人を目にすると、それは本当に彼や彼女にとって良いことなのだろうかと思わないでもない。
復帰することに異議を唱えているわけでは全くない。復帰するからには信用を取り戻せるよう努力すれば良いと思う。
とにかく違和感を感じるのである。
もう少し想像力を働かせてみると、彼や彼女らを擁護する以前に、他にもっと弱い立場の一般の被害者がいるかもしれない、と思いを至らせることはできるかもしれない。仲間であるならあえて今は擁護しないという選択肢もあるであろう。
正義はどこにあるだろうか。